こちらの方が分かりやすいですよね。
総門・表門にあたる「大門」・・・地名の由来になっている門。
現在のものは国道の通行整備のため、昭和十二年に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長三年(一五九八)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでありました。その旧大門は大正十二年(一九二三)の関東大震災により倒壊しかかったため、両国・回向院に移築されましたが昭和二十年の空襲により焼失。
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【覚書】
増上寺は,明徳4年(1393)12月に創建。
はじめは麹町貝坂(平河町あたりか)にあったそうで、天正18年(1590),門前を江戸城入城の家康が通りかかり,その時乗っていた馬が動かなくなってしまった。家康はその行列をみていた当時の住職・善光観智国師存応大僧正に目をとめ,翌日の訪問を約束。住職存応に深く帰依した家康は,増上寺を徳川家の菩提寺とすること決定したという。その後,日比谷,霞ヶ関と移転したといわれているが,慶長3年(1598)8月,江戸の築城・都市計画に伴い,現在地である芝に移転し,完成したのは慶長16年(1611)である。増上寺は,
- 将軍家の菩提寺として
- 筆頭学問所として
- 浄土宗行政の中枢機関として
その揺るぎない地位を保ってきた。ここに葬られた将軍は6人(二代秀忠,六代家宣,七代家継,九代家重,十二代家慶,十四代家茂)で,不揃いなのは後から菩提寺になった寛永寺との勢力関係などがある(家康と三代家光は日光東照宮,十五代慶喜は谷中墓地,後の6人が寛永寺)。かつて将軍らのために三つの壮麗な霊廟が建っていたが,ほとんどが昭和20年の東京大空襲により炎上してしまった。今,この土地には台徳院霊廟の惣門(芝ゴルフ練習場敷地内)と有章院霊廟の二天門(東京プリンスホテル前)を残している。戦後,改葬後の墓地は,現境内右手奥の黒本尊堂安国殿の背後にある。
明治の新政府誕生までは,寺領一万石余り。
二十数万坪の境内地,山内寺院四十八宇,学寮百数十軒,常時三千名の僧侶が修学する大寺院であった。現在でも浄土宗の大本山として,東京を代表する由緒寺院の格式を保っおり,建造物,古文書,経典など文化財の宝庫としても知られている。大本山としての宗教活動のほかに,文化的な活動も幅広く行われており,明徳幼稚園,三康文化研究所,三康図書館,静寛院宮泰賛会などが境内にある。主な年中行事は,正月,五月,九月の毎十五日に行われる黒本尊祈願会(ご開帳),四月十四日~十六日の御忌法要,涅槃会,花まつり,施餓鬼会,十夜法要などが有名である。
増上寺の表の顔として、東京都内最古の建築物にして東日本最大級を誇る「三解脱門」。
当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門。
元和八年(一六二二年)、徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井正清とその配下による建立。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。三解脱門とは三つの煩悩「(むさぼり)、(いかり)、(おろかさ)」を解脱する門のことです。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗造り。唐様を中心とした建物に、和様の匂欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
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